「かぶきがわかるねこづくし絵本2 義経千本桜」

かぶきねこづくし

描かれている人物と場面

表紙:(左から)静御前、源義経、源九郎狐
裏表紙カット:源九郎狐

絵の解説

川連法眼館の場
初音の鼓を手に故郷の吉野山へ帰る源九郎狐と、それを見送る静御前と義経

原画

鳥居前の場
勇ましい源九郎狐。狐六法での引っ込み。

源九郎狐(原画)

あらすじ

「義経千本桜」全五段 竹田出雲・三好松洛・並木千柳(合作)

役の説明

佐藤四郎兵衛忠信実は源九郎狐(さとうしろうべえただのぶ じつは げんくろうきつね):
義経が後白河法皇から賜った初音の鼓に使われた狐の子。
鼓が内裏から出て義経の手に渡ったことを幸いに、家臣の佐藤忠信に化けて鼓に近づく。
本物の佐藤忠信は母親の病気見舞いのため郷里の出羽国に帰っている。
<鳥居前>で静御前を助けた功から義経の鎧と”源九郎義経”の名を賜り、静御前の護衛を命じられる。

あらすじ

初段
<序幕>
義経は後白河法皇より初音の鼓を賜ります。
左大臣・藤原朝方は鼓に事寄せて頼朝を討てと義経に命じます。

<北嵯峨庵室>
庵室に匿われていた平維盛の御台・若葉内侍(わかばのないし)と嫡子・六代君(ろくだいのきみ)は主馬小金吾(しゅめのこきんご)とともに維盛がいるという高野山を目指して旅立ちます。

<川越上使>
頼朝の使いとして川越太郎が義経が住む堀川御所に来ます。
謀反の嫌疑をかけられた義経を救うため、義経の正妻・卿の君は自害します。

<堀川御所>
塀外で、弁慶が鎌倉方の軍勢を討ち果たしてしまいます。
義経は都を捨て、頼朝への恭順を示そうとします。

二段目
<鳥居前>
伏見稲荷の鳥居前、落人となった義経一行を静御前が追って来ます。
義経は静御前に初音の鼓を形見として授け、梅の木に縛り付けて追ってこないようにします。
そこへ鎌倉方の軍勢が来、静御前を捕まえようとしますが、義経の家臣・佐藤忠信がこれを助けます。
義経は忠信に静御前を都へ連れ戻すよう命じ、別れを告げるのでした。

<渡海屋>
九州を目指す義経一行は、摂津の船問屋に逗留中。
船問屋の家主・銀平は、実は平知盛、妻のお柳は典侍の局、娘のお安は安徳帝でした。

<大物浦>
義経を討たんとする平知盛の策略を見破っていた義経は、大物浦で知盛を追い詰めます。
義経は安徳帝の保護を約束すると、典侍の局は自害。
それを見た知盛は、錨もろとも海へと身を投げるのでした。

三段目
<椎の木・小金吾討死>
平維盛の妻・若葉の内侍、嫡子の六代君、主馬小金吾が吉野の茶屋で休憩しています。
通りかかったいがみの権太が言いがかりをつけ金をたかろうとしますが、小金吾は黙ってやり過ごします。
その後、敵方の捕手に囲まれ、若葉内侍と六代君を逃すも小金吾は討死してしまいます。

<鮨屋>
吉野の里の鮨屋の弥左衛門は平維盛をかくまっていますが、敵方の知るところとなり、梶原景時から首を要求されています。
奇しくもその晩、若葉内侍と六代君が鮨屋を訪れ、維盛親子は再会を果たします。
権太の機転で難を逃れた維盛親子でしたが、勘違いから弥左衛門は権太を刀で刺してしまいます。
瀕死の権太の告白により真実を知った弥左衛門たちは悲嘆にくれながら権太を看取るのでした。

四段目
<道行初音旅>
義経が吉野へ落ち延びたと伝え聞いた静御前は、忠信を御供に連れて吉野へと急ぎます。

<川連法眼館>
吉野山の川連法眼館に、二人の忠信が現れ、源九郎狐の正体が露見します。
聞けば、初音の鼓の皮となった狐の子で、親狐を慕い、鼓に付き従ってきたとのこと。
義経は、狐の孝心とこれまでの働きを讃え、初音の鼓を与えます。
狐は、夜討ちを企む吉野山の悪僧たちを蹴散らし、鼓を抱いて古巣に帰っていくのでした。

私のツボ

通し狂言の絵本

歌舞伎の三大名作を絵本にするという企画のうちの一つ。
ページ数も文字数も限られているので、やや駆け足になってしまうのは仕方ありませんが、一つの物語として捉えることができる有意義な仕事でした。

どの場面を描くか・どの場面を描かないか、は担当の編集者と相談して進めました。
どうしても入れたかったのが「川越上使」の場面。
滅多に上演されることはありませんが、この場面があることで、なぜ義経が逃げることになったのか等、物語の背景が理解できます。
「鳥居前」からの上演がほとんどですが、なぜ義経たちは鳥居前に集まっているのか、なぜ静御前が追いかけて来たのか、などの理由がわかります。
川越太郎と卿の君がメインになり、やや派手さに欠けるのと、弁慶のくだりが「芋洗勧進帳」としてスピンオフされているため、あまり上演されないのかもしれません。

逆に、描かなかった場面は大詰めの「奥庭」の場面。
あまり上演されないというのが一番の理由ですが、物語の主役をあくまでも源九郎狐にしたかったので、「川連法眼館」の場面を絵本の最後にしました。

家によって演出が異なりますが、あまり家を特定しないよう、源九郎狐が桜の木につかまる場面で終えています。
その後、どうやって山に帰ったのか、空を飛んだか、狐六方か、それは読者のご想像にお任せします、と余白を持たせた終わらせ方にしました。

絵本の表紙のレイアウトは「仮名手本忠臣蔵」の時と同じ、ほぼ正方形の画角に中央にタイトルを入れるとあらかじめ決まっていましたので、それを考慮した上で構図をまとめました。
本来は、義経と静御前、源九郎狐はもっと離れています。
舞台での演出はもちろんですが、戯曲を読んで思い浮かべる情景としても、両者の間には距離があります。
人間と動物の距離、戦乱の世に生きる者とそうでない者の距離と言えるでしょう。
絵本のタイトルが入ることで絵が分割されるのを考慮した上で、その距離を縮めました。
義経と静と源九郎狐の魂の交歓。
それが、たとえ吉野山の桜のように儚いものであったとしても、純粋で美しい交歓に変わりはありません。

平家の鎮魂歌

毎月描いている「かぶきねこづくし(R)」は、今も昔も私なりの軸(=ツボ)を据えて描いています。
そうでないと、ただ舞台写真をなぞっただけの絵になってしまいます。
一枚のカードでさえそうなので、絵本となると、きっちり軸を据えないとまとまりのないものになってしまうなと、まずは軸を据えんと、あれこれ調べたり観たりしました。

誰の物語なのか、源九郎狐か、義経か、平家の兵(つわもの)たちか。
何の物語なのか、親を思う孝心なのか、愛なのか、家に対する忠誠心か、復讐か、再興か。

それぞれが重層的に絡み合う物語で、だからこそ名作たらしめているとは思うのですが、風呂敷が拡がるばかりで物語を貫く軸が定まりません。
そんな時、大きなヒントをくれた本。

渡辺保氏の「千本桜ー花のない神話」東京書籍 (1990/10/1)
大まかにいうと、天皇制という統治システムの観点から物語を読み解いた本です。
氏が吉野山に滞在して書き上げた本のようで、その吉野山の描写が幽玄でとても美しく印象に残っています。
吉野山は一つの大きな霊山で、墓所としての役割を果たしている、と書かれていました。
その箇所を読んで、あぁだから吉野山なのだ、千本桜なのだ、と。
「義経千本桜」は義経による平家の鎮魂歌なのだと、思い至りました。

以下、私なりの解釈です。
「渡海屋」の平知盛たち、「すし屋」の平維盛一家。
それぞれ平氏はもはや無いという現実を受け入れ、ある者は死を、ある者は社会的な死である出家を選びます。
そして巻き込まれてしまった市井の人たち、小金吾、権太一家、お里一家。
彼ら生きた平氏の亡霊たちに引導を渡し、漂泊する平氏の魂魄を吉野山の千本桜のもとへと案内する義経の放浪譚、というのが私なりの定義です。

源九郎狐は、人間界の枠(天皇制という統治システム)にとらわれない存在として描かれているのだろうと思います。
家族を想い、一緒に暮らしたいと願い、奪われた家族を取り戻す源九郎狐。
姿形が変わっても、愛する家族に変わりはない。
そんな明白で単純な行いができない人間界、利害関係やしがらみでがんじがらめになってしまう人間たちを炙り出す存在なのかなと思っています。

歌舞伎の舞台とは少し離れた内容ですが、おすすめの一冊です。

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