AKPC56 「色彩間苅豆(いろもようちょっとかりまめ)〜かさね」

もうひとつ

描かれている人物

右:木下川与右衛門
左:かさね

絵の解説

左:与右衛門を追いかけて木下川堤までやってきたかさね
右:糸立て(糸立て筵)で顔を隠して逃げてきた与右衛門
二人の再会場面

原画

卒塔婆と髑髏

原画

あらすじ

主な登場人物と簡単な説明

・木下川与右衛門(きねがわよえもん)
本名は久保田金五郎という侍。
不義密通の上に殺人を犯し、名前を変えて結城家に仕えている。
かさねと深い仲になるが、遺書を残して出奔する。

・かさね
絹川家の養女。
結城家の奥女中。与右衛門と恋仲になり、子供を身籠る。

あらすじ

夏、驟雨の夜。
与右衛門は恋人を捨てて逃げて来たが、木下川堤で恋人のかさねに追いつかれる。
子を宿していると告げられた与右衛門は心中を決意して土手に上がる。

その時、鎌が目に突き刺さった髑髏が卒塔婆に乗って川上から流れてくる。
与右衛門が引き寄せてみると、卒塔婆には「俗名助」と書かれてあった。
驚いた与右衛門が卒塔婆を二つに折ると、かさねの足に激痛が走る。
髑髏を鎌で叩き割ると、かさねは叫び声をあげて倒れる。

髑髏は実はかさねの義父・助のもので、助を殺したのは与右衛門だった。
助の妻・菊と密通した末に、草刈鎌で殺害したのである。
菊はかさねの実母であった。

そこへ捕手が登場、与右衛門を捕えようと立ち廻りになる。
捕手が落とした手紙を拾った与右衛門が月明かりで読むと、
与右衛門の罪状が詳しく書かれた回文状だった。

それを見たかさねは、他の女からの恋文と勘違いして与右衛門に縋り付く。
かさねの顔は醜く崩れていた。
親の仇と契った娘への、菊の祟りであった。

驚いた与右衛門は鎌でかさねを斬り付け、鏡をつきつけて醜くなった顔を見せる。
さらに、親を殺したことを告白する。
それを聞いたかさねは嘆き、与右衛門を責めるが、与右衛門に橋の上で殺される。

逃げ去ろうとする与右衛門だが、かさねの怨霊に引き戻されてしまうのだった。

KNPC27 色彩間苅豆(いろもようちょっとかりまめ)~累(かさね)

私のツボ

マイルドな鶴屋南北

美しく、妖しく、江戸版ゴシックホラーの名舞踊。
「法懸松成田利剣(けさかけまつなりたのりけん)」の中の2番目の序幕として書かれ、
浄瑠璃所作として独立したのが本作の「色彩間苅豆」です。
狂言ではなく所作なので、南北独特のカオスは適度に整頓され、
おどろおどろしさも程よく中和されています。
メリハリのある構成で、
内容がよく分からなくても楽しめてしまうのもまた名作たる所以でありましょう。

以前描いた時は、クライマックスの場面でしたので、
今回はまだ悲劇が始まる前の二人。
不義密通を犯してしまったという罪に怯える恋人ふたり。
もっともっと深い罪業があることを二人は知らない。

そして二人の命運を握る、髑髏と卒塔婆。
照明が暗いので、座席が遠いと何が流れて来たのかよく分かりません。
一度、舞台が近い席で観たとき、髑髏の佇まいの良さに見惚れてしまいました。
リアルな髑髏ではなく、国芳の浮世絵に出て来そうな、
やや水木しげる的なユーモラスな髑髏。
それが卒塔婆に乗ってドンブラコと流れてくる様は、
なかなかドラマティックな登場です。
これが、後の「東海道四谷怪談」の隠亡堀の演出へと繋がっていったのかなと思います。

「法懸松成田利剣」の初演は1823年6月、「東海道四谷怪談」は1825年7月です。

かさね、与右衛門の衣装は家や俳優、演出によって異なりますが、
かさねは薄紫〜薄黄系のグラデーションの地に御殿模様、
与右衛門は黒羽二重の紋付、
と比較的よく見かけるスタイルにしました。
かさねが紫色の頭巾をかぶって登場する演出もあります。

累伝説

「累・与右衛門」の芝居は、「色彩間苅豆」の他に、
「伊達競阿国戯場(だてくらべおくにかぶき)」の世話場「身売りの累」があります。

どちらも元の話は、江戸時代初期の祐天上人の説話で、
1690年(元禄3年)に刊行された仮名草子「死霊解説物語聞書」に収録され、広く知られるようになりました。

「累伝説」
下総の相生村に、累という身も心も醜い女がいた。
累の母親が、醜い連れ子を疎ましく思い、絹川へ投げ込んで殺した因果であった。
少しばかりの田畑を目当てに婿入りした与右衛門は、累の醜さに耐えかねて絹川に突き落として殺害。
それ以来、絹川べりに累の怨霊が現れて村人を脅かすようになった。
与右衛門の身辺にも祟りが及び、後妻は皆死に、
六人目の妻が産んだ菊という娘には累の怨霊が乗り移ってしまう。
やがて法蔵寺の祐天上人の功徳により累は成仏し、与右衛門は仏門に帰依する。

まさに「親の因果が子に報い、生まれいでたるこの姿」と言わんばかりの因果譚です。

「色彩間苅豆」は好きな演目なので何度も見ていますが、
長らく、累の相貌が醜く崩れるのは、与右衛門に対する嫌がらせかと思っていました。
与右衛門に殺害された助が、与右衛門の行先を邪魔する。
累の実母・菊の卒塔婆と髑髏なら、呪いが累にいくのは分かりますが。
助にとっては、累は義理の娘なので、そこまで因縁はなかろうと、
助の呪いは下手人に向かうものだと思い込んでいたわけです。

そうではなくて、血縁だろうと何だろうと、助は累の親に代わりはなく、
両親の敵と深い仲になってしまった娘に、親の恨みが降りかかる。

という本来の筋を理解したのはずいぶん後のことなのですが、
いまだにそこは納得がいかず、累が可哀想だと現代人としては思うのでした。
彼女は何も知らなかったのに、悪いのは騙した与右衛門ではあるまいかと。

ただ、まず実子に因果が巡る当時の倫理観や宗教観は理解はできるので、
その時代による価値観のズレを体感できるのも古典鑑賞の面白さだと思います。

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