KNPC79 「道明寺(どうみょうじ)〜菅原伝授手習鑑(すがわらでんじゅてならいかがみ)」

かぶきねこづくし

描かれている人物

上段:(左から)立田の前、判官代輝国、覚寿
下段:(左から)宿禰太郎、奴宅内、土師兵衛
下:菅丞相と苅屋姫

絵の解説

原画

立田の前:夫・宿禰太郎が舅・土師兵衛と菅丞相暗殺の悪巧みを立ち聞きしてしまった
判官代輝国:菅丞相を迎えにきた
覚寿:殺害された立田の前の口に詰められていた布の切れ端を手に、宿禰太郎に詰め寄る

宿禰太郎:「ホホ、これは良い白相国」と鶏を撫でる
奴宅内:池の血溜まりを発見する
土師兵衛:偽の時を告げる鶏を入れた挟箱(はさみばこ)を手に不敵な笑みを浮かべる
*白相国(しろしょうこく):相国は大臣の漢名。白い鶏を大臣と呼んでふざけている

原画

別れを惜しむ菅丞相と苅屋姫。
立ち去ろうとする菅丞相の裾を姫が掴むが、菅丞相は姫の顔を見ようとしない。

あらすじ

主な登場人物と簡単な説明

・菅丞相(かんしょうじょう)
菅原道真。丞相は大臣の唐名のことで、右大臣を勤めたことにちなんで菅丞相と呼ばれる。
政敵・藤原時平の奸計で太宰府へ左遷させられる。
筑紫へ行く前に伯母・覚寿の館へ立ち寄る。

・苅屋姫(かりやひめ)
菅丞相の養女。覚寿は実の母。立田の前の妹。

・覚寿(かくじゅ)
菅丞相の伯母。河内国土師の里に住む。

・立田の前(たつたのまえ)
覚寿の娘で苅屋姫の姉。宿禰太郎の妻。

・宿禰太郎(すくねたろう)
立田の前の夫、土師兵衛の息子。欲深く、父と共に時平側と通じて菅丞相暗殺を企んでいる。

・土師兵衛(はじのひょうえ)
宿禰太郎の父で腹黒い。息子の出世のため、時平による菅丞相暗殺計画に加担した。

・判官代輝国(はんがんだいてるくに)
菅丞相を京都から九州まで護衛する任務を担う武士。
情に厚く、護送の途中で伯母・覚寿の屋敷に一泊することを許した。

・宅内(たくない)
覚寿の館に仕える奴。立田の前の死体を発見する。ご馳走役。

他、弥藤次などがいます。

あらすじ

「菅原伝授手習鑑」全五段のうち、二段目「道明寺」
藤原時平の計略によって太宰府に左遷が決まった菅丞相は、船出の日和を待つ間に河内国の伯母・覚寿の館に立ち寄る。
加茂堤から斎世親王と駆け落ちした苅屋姫は、偶然出会った姉の立田の前の計らいで、ひそかに実母である覚寿の館に匿われていた。
厳格な性分の覚寿は、苅屋姫を匿ってはいるが、丞相失脚の原因となった姫を許さず、杖で打ち据える。

一方、立田の前の夫・宿禰太郎とその父・土師兵衛は、時平から菅丞相暗殺計画を頼まれており、護送の役人・判官代輝国が来る前に殺害しようと計画を練っていた。
それを立ち聞きしてしまった立田の前は二人を諌めるが、夫に殺され庭の池に沈められてしまう。

一番鶏が鳴き、宿禰太郎と土師兵衛が仕組んだ偽の使者が来て、菅丞相を輿に乗せて立ち去る。

やがて立田の前が殺害されたことが知れ、館は騒然とする。
犯人を見抜いた覚寿は宿禰太郎を刺殺。
そこへ本物の使者・輝国が菅丞相を迎えに来て、既に発ったはずだと訝しむ覚寿。

すると障子の中から「ヤァ輝国。まづ待たれよ。道真はこれにあり」と菅丞相の声がかかる。
と、そこへ最前の偽迎えが戻り、輿に乗っているのは菅丞相の木像だと言いがかりをつける。
覚寿は、菅丞相が彫った木像が身替りになったことを知る。

悪巧みがあらわとなった土師兵衛は輝国に討たれる。

覚寿は、苅屋姫を太宰府へ伴わせようとするが、菅丞相は立田の前の供養をするよう言いふくめ、覚寿のもとへ預けていく。
そして菅丞相は筑紫へと旅立つ。

私のツボ

東天紅殺人事件のトリック

”東天紅の場”と呼ばれる鶏を使ったトリック。
東天紅は鶏の品種の一種ですが、ここでは東の空が紅く染まる時すなわち暁に鳴く鶏のことを意味します。

悪巧みの主犯は、密かに藤原時平側についている土師兵衛・宿禰太郎父子。
夜明け前に鶏を鳴かせ、菅丞相を出発前に誘い出して殺害するという計画です。
どうやって早く鳴かせるかというと、熱湯を入れた竹筒の上に鶏を留まらせ、夜明けによって気温が上昇したと勘違いした鶏が鳴くというもの。
この仕掛けは土師兵衛が発案した自慢の秘密ごとのようで、上機嫌で息子に説明するものの、息子に「鳴かなかったらどうする」と至極まともな意見を言われます。
それに気を悪くしたのか「くどい。その時考える」と一蹴してしまいます。
そんな行き当たりばったりで良いのでしょうか・・・。

その悪巧みを立田の前に聞かれてしまい、口封じのために立田の前は太郎によって殺されてしまいます。
そこで土師は、鶏が死体のそばで鳴くという伝承を思い出し、先述の竹筒の代わりに池に沈めた立田の前の遺体を利用します。
この伝承は、江戸時代には広く流布していた俗信のようで、実際に死体の捜索に鶏を活用していたという記述を当時の文献から確認することができます(『北越雪譜』『遠碧軒記』など)。

話を戻しまして、ここでめでたく鶏がニセ鳴きをするのですが、土師・宿禰父子が、
「ソリャこそ鳴いたわ東天紅」
「アリャまた唱うは東天紅」
と手を叩いて喜ぶ様がなんとも無邪気で面白いのですが、仮にも縁戚関係の人間を殺しているわけで、その狂気が恐ろしくもあります。

この鶏を使ってのトリックは雑な割に大掛かりで、他にもっと効率の良い手があるのでは、と思ってしまうのですが、そんな疑問さえも土師兵衛は計算していたのかもしれません。

長々とトリックの解説を書きましたが、この親子は悪役というより道化のようで、滑稽で物悲しいです。
そもそも時平側についた理由は、土師兵衛が息子の出世を思ってのこと。
菅丞相が失脚の憂き目にあい、その血筋である立田の前を妻に持つ宿禰太郎の将来を案じてのことでした。
親バカの一言に尽きると思いますが、宿禰太郎を見ていると、その心配もむべなかるらんという気持ちになります。
父親に言われるがままに何のためらいもなく妻を殺し、その亡骸の上で鶏が鳴くのを見て手を叩いてはしゃぐ姿は、稚気あふれるどころか、なんらかの疾患持ちではなかろうかと思わせます。
宿禰太郎は典型的な端敵で愚かな人物として描かれているので演じ方としては正しいのですが、なぜ立田の前はこんな男に嫁いだのか、との疑問が浮かびます。
姉は粗野な男に嫁ぎ、妹は男と駆け落ちする。
やはり覚寿の厳しすぎる教育方針に問題があったのかも知れない、と杖で苅屋姫を折檻する場が思い起こされてしまうのでした。

「道明寺」は二時間近い演目ですが、この異色の父子のおかげで飽きません。
ヨイショヨイショと言わんばかりに、鶏を乗せた挟箱の蓋を、刀の柄で池の程よいところに押し出す土師兵衛の不安定な後ろ姿。
それをかたわらで固唾を飲んで見守る息子・太郎。
面白いからと言って絵になるかというと、そこは難しいので枠の中に小さく描きました。

丞相名残

東天紅の場は、菅丞相の木像が身替わりとなって活躍します。
白い装束で、控えめな人形振りで登場します。
初めて見たとき、予備知識ゼロで見たので、菅丞相は出発で緊張しているため不自然な動きになっているのだろうと思いました。
その程度の人形振りです。

本物の菅丞相の登場からは、”丞相名残”の場面になります。
ポストカードに描いた場面は、去りゆく菅丞相の裾に縋りつく苅屋姫。
この後、形見の扇を渡して立ち去り、花道七三で天神の見得、本舞台を振り返って名残を惜しむ、と続きます。
菅丞相は罪人であることに遠慮して、苅屋姫と顔を合わさないように気持ちをこらえているのですが、姫が裾に縋りつき、菅丞相は歩みを止めます。
おそらく、菅丞相と姫はもちろんのこと覚寿も含めて、菅丞相を見守る人々の緊張がピークに達した瞬間ではないかと思います。
溢れそうな思いがギリギリのところで保たれている瞬間を描きました。

「菅原伝授伝授手習」では、合作した三人の作者が執筆に先立って肉親の別れを主題にしようと打ち合わせしたと言われています。
菅丞相が苅屋姫との別れに胸を痛めるのは、親子の別れであると同時に、姫が自責の念に駆られるであろうこと、罪人の娘として生きていかねばならない姫を庇ってやれないこと、これが辛く苦しかったのではないかと思います。
姫の不安を受け止めてあげられない、守ってやれない。
保護者として忸怩たる思いだったことでしょう。
”親子の別れ”には、覚寿と立田の前の別れも含まれていると私は解釈しており、その別れは菅丞相に起因します。

「道明寺」は数回見ていますが、菅丞相が花道の揚幕に向き直るとき、いつも涙が頬を伝っていたように記憶しています。
この涙は、親子の別れの悲しさのみならず、運命に対する己の非力さへの悔し涙も含まれているのではないかと解釈しています。

道明寺と桜餅

桜の季節といえば、和菓子の道明寺。
“甘じょっぱい”という味覚を初めて知ったお菓子です。
私は名古屋出身で、名古屋は文化的には西日本寄りなので子供の頃から桜餅といえば道明寺で、道明寺以外に桜餅が存在するとは夢にも思いませんでした。

関東風桜餅すなわち長命寺桜餅は、歌舞伎座で初めてその存在を知り、衝撃を受けました。
東京の甘味処で善哉を注文したら、想定外のものが出てきて、関東と関西で善哉と汁粉の定義が異なるという事実を知った時に次ぐ衝撃でした。
善哉はいまだに間違えるので、初めて入る甘味処では汁の有無を事前に確認するようになりました。

話を戻しまして、
道明寺餅は、道明寺糒(ほしい)と呼ばれる道明寺粉を蒸して作ります。
糒は、覚寿が菅丞相が太宰府に発った後、毎日九州に向かってお供えした御膳のお下がりを多くの人に分け与えたところ、食べると病気が治ると評判になり、あらかじめ乾燥・貯蔵させたのが始まりと言われています。

あぁこの人(覚寿)がここ(道明寺)でこの人(菅丞相)を思って作ったのか、と身近な菓子の出生譚を視覚的に知るのはとても面白く感慨深いものです。

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