KNPC185 黒塚(くろづか)

かぶきねこづくし

描かれている人物

左上:老女岩手
右下:安達原の鬼女
背景:老女岩手

絵の解説

糸を繰る老女岩手。

原画

月明かりの下、芒原で踊る老女岩手。
僧の説法によって救われた岩手は、晴れやかな心で軽やかに踊る。

原画

約束を破った僧たちに、怒りをあらわに鬼女の本性を見せる。

原画

あらすじ

主な登場人物と簡単な説明

・老女岩手(いわて) 実は 安達原の鬼女(あだちがはらのきじょ)
辛く孤独な人生を送るうち、世を呪い、人を恨んで旅人を喰らう鬼女となった。
旅の僧・祐慶に仏の道を説かれ、救われる道があると歓喜する。
しかし、老女の留守中に見るなと約束した部屋を覗かれ、裏切られた怒りと悲しみで鬼女の本性を表す。

・阿闍梨祐慶(あじゃりゆうけい)
紀伊の高僧。二人の山伏と強力を伴い、修行の旅をしている。

他、強力太郎吾、山伏大和坊、山伏讃岐坊がいます。

あらすじ

木村富子 作

芒(すすき)が生い茂るうら寂しい奥州安達原。
日もかげり、人影もない芒原の中に一軒のあばら家が見え、阿闍梨祐慶の一行は一夜の宿を求める。

あばら家に住む老女・岩手は祐慶の願いに応えて糸を繰りながら糸繰り唄を歌う。
岩手は、元は都の出だったが、父が流罪となって奥州へ下り、一緒になった夫は他の女と都へ行ったきり行方がわからないと語る。

怒りと哀しみと恨みに包まれて一人孤独に生きる岩手に、祐慶は仏の道を説く。


自分も救われると知った岩手は喜び、僧たちをもてなすために薪を取りに出かける。
岩手は、三日月の月光のさす芒原で、仏の教えに導かれた喜びの舞をひとり踊る。

そこへ転げるように強力が逃げてくる。
岩手が家を出る前、決して覗いてはいけないと言った部屋を、強力が覗いてしまったのである。
一室には人骨が散乱していた。
老女岩手は旅人を喰う鬼女だったのである。


祐慶たちに裏切られた岩手は鬼女の本性をあらわして、一行に襲いかかるが、法力によって祈り伏せられる。
己の浅ましさを恥じた岩手は、どこへともなく立ち去るのだった。

私のツボ

魂の救済

上中下の三巻から成っており、なかでも、中の巻の芒原での老女の踊りは、哀しいほどに美しく、舞台美術とも相まって、幻想的な場面です。
”魂の救済”というテーマはジャンルを問わず個人的に大好きなのですが、まさにこの場面は岩手の”魂の救済の舞”で、涙が出るほど美しく、愛おしいです。

そこから一転、裏切られたと知っての怒りの形相。
祐慶たちは、芒原での童女のような純真な岩手を知らないので、本性見たりと全力で祈り伏します。
このあたりの洞察力のなさというか短慮さは、本当に高僧なの?宗教家なの?と言いたくなりますが、いつの世もそんなものなのかもしれません。
社会的弱者が結局はねじ伏せられてしまうのが世の常です。
宗教による救済の限界ともとれますので、ある意味、とても現実的でアイロニカルな戯曲ともいえます。

岩手は純真だからこそ、裏切られた夫を長らく恨み続けられるとも言えましょう。
岩手の感情の揺れがこの舞踊劇の肝なので、岩手だけにしました。

「雨月物語」の青頭巾

「黒塚」の原型となった「安達ヶ原の鬼婆伝説」を筆頭に、鬼伝説や鬼を題材にした物語は多々あります。
なかでも私が好きなのは上田秋成の「雨月物語」に収録されている「青頭巾」。
「黒塚」を観ると、この「青頭巾」を思い出します。
鬼になってしまった経緯や背景は異なりますが、人肉を喰らう鬼のところに旅の高僧が訪れて救済のきっかけを与えるという展開は同じです。
大きな共通点として、「黒塚」も「青頭巾」も、鬼としての自分を受け入れていないこと、救済を求めていることだと思います。
鬼になってしまった現状から抜け出したいが、自分を鬼たらしめた大きな絶望に呑み込まれてしまう。
光を求めつつも、闇に呑まれてしまう葛藤があります。
その葛藤が物語に奥行きを出しており、単なる鬼退治の寓話とは一線を画しています。

以下、「青頭巾」より。
「かく浅ましき悪業を頓(とみ)にわするべきことわりを教へ給へ」と高僧に訴える鬼。
高僧は鬼に「江月照松風吹 永夜清宵何所為」という句の真意がわかれば仏の心に出逢えると言い残して立ち去ります。
鬼は黙想すること一年、やがて氷が溶けるように鬼の存在そのものが消えてしまいます。
すなわち、煩悩が消え、それと共に成仏できたのだと解釈できます。

この句の情景が、「黒塚」の中の巻、芒原での情景と重なります。
きっと、岩手の魂も「青頭巾」のように救済されたと信じたいからこそ、重ねてしまうのだろうと思います。

余韻の残る舞踊劇です。

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