描かれている人物
黄枠左端から時計まわりで:
下男正助、お関、磯貝浪江、蟒三次、菱川重信
赤枠:正助(背中を向けている猫)、蟒三次(正面を向いている猫)
下:三遊亭円朝
絵の解説
料亭に呼び出された正助。
赤子と二人、留守番をする羽目になり、不安げなお関。
大詰、菱川重信の亡霊に歯向かう浪江。
浪江に殺人現場に落ちていた印籠を突きつける三次。
龍に眼を描き入れる重信の亡霊。
十二社の大滝での立ち回り(三次、正助)
あらすじ
三遊亭円朝 作
主な登場人物と簡単な説明
・菱川重信(ひしかわしげのぶ)
元武士で、真与島与惣次といったが、主家が二千両の強盗被害に遭い、金庫番を勤めていた伯父が自害。
世を儚んで絵の道を進み、今は諸派を極めた高名な絵師。
・お関(おせき)
菱川重信の妻。菱川との間に生まれたばかりの幼子・真与太郎がいる。
・磯貝浪江(いそがいなみえ)
浪人。お関を寝取るため、菱川に弟子入りする。
本名は佐々繁といい、菱川重信の主家から二千両の金を奪った犯人。
・蟒三次(うわばみさんじ)
悪党。磯貝浪江と共に二千両を奪った共犯。
・下男正助(げなんしょうすけ)
菱川家の下男。
正直で、お人好しの小心者。
・三遊亭円朝(さんゆうていえんちょう)
落語家。この物語の作者。
他、扇屋竹六、住職や檀家などがいます。
あらすじ
隅田堤の場
花見客で賑わう江戸向島の隅田堤。酔客に絡まれている菱川重信の妻・お関を救った浪人・磯村浪江。
これが縁で浪江は重信の内弟子になるが、美しいお関への下心があってのことだった。
柳島菱川重信宅の場
浪江が弟子入りして二ヶ月ほど経った頃、高田の南蔵院本堂の天井画を泊まり込みで描くために重信が家を空ける。
その隙に、浪江はお関を我がものにする。
高田の料亭花屋の二階の場
南蔵院に近い料亭。浪江は、かつての泥棒仲間の蟒三次と偶然再会、金を無心される。
そこへ正助が来たので三次は退散。
浪江は正助を味方につけようと料亭に招き、三次を言いくるめて兄弟の盃を交わし、親の仇と偽って重信殺害の手助けを強要する。
落合村田島橋の場
絵が完成間近となり、正助は重信を息抜きにと落合に蛍狩りに誘い出す。
待ち伏せしていた浪江が重信を殺害。正助は恐怖のあまり逃げ出す。
そこへ三次が現れ、重信のそばに落ちていた浪江の印籠を拾う。
高田の南蔵院本堂
正助が南蔵院に逃げ帰ると、殺されたはずの重信が絵を仕上げていた。
重信は龍の眼を描き終えると、微笑んで姿を消すのだった。
菱川重信宅
重信が殺されてから百日。
法要も終わり、重信の死の真相を知らないお関は、周りに勧められるまま浪江に再婚を申し入れる。
重信の実子・真与太郎が目障りな浪江は、正助に十二社の大滝に投げ入れて殺害するよう命じる。
正助は泣きながら真与太郎を抱いて出ていく。
入れ替わりで三次が現れ、浪江に印籠を見せて恐喝する。
浪江は正助を殺すよう三次に命じて十二社へ行かせる。
角筈十二社(つのはずじゅうにそう)大滝
正助は、苦悩の果てに十二社の滝に真与太郎を投げ入れてしまう。
すると滝壺から我が子を抱いた重信の亡霊が現れ、正助を諭し、榎の樹液で真与太郎を育てよと告げて消える。
三次と浪江は重信の霊力によって死ぬ演出、重信の旧臣・松井三郎が出てきて真与太郎と共に三次と浪江を討つ演出があります。
乳房榎
落語家の園朝が落語の高座で物語をまとめて幕。
私のツボ
本水と早替わり
蟒三次は歌舞伎だけの役で、正助、三次、重信、円朝の四役早替りと十二社滝の場に本水を使っての演出が、この演目の見どころです。
三次が初登場したのは大正7年(1914年)南座での上演でした。
本水での早替わりは、初めて見た時、何がどうなっているのか理解できませんでした。
背中を見せているのは替え玉の俳優さんという説明を聞いても、それでも理解が追いつきません。
立ち回りも激しいので、大変だなぁ、と間抜けな感想しか出てきません。
料亭での早替わりも忙しいのですが、衣装だけでなく、表情や所作、指の動きまでガラリと変わるので、これも驚きました。
佇まいの雰囲気まで変えてしまうので、別の俳優さんが演じているのではないかと思うほど。
これは俳優の腕の見せ所なのだろうと思います。
と、早替わりと本水が目立ちますが、とてもよくできた人間ドラマです。
とにかく皆自分のことしか考えていません。
被害者の芸術家の重信も、正直者の正助もです。
一見、巻き込まれただけの善人に見える正助が一番タチが悪いかもしれません。
重信に至っては、身から出た錆としかいえません。
被害者は真与太郎だけです。
南北のようなカオスな展開もなく、怪異譚ではありますが、人の欲と業を描いた作品。
なので、全員登場にしました。
円朝がねめつけるような目つきをしているのは、登場人物全員の腹の底を見抜いているからです。
新宿雑感
歌舞伎の世話物でよく登場するのは浅草と両国、本所あたりの長屋裏。
だいたい墨田区・台東区で事件が起こります。
「怪談乳房榎」は珍しく、新宿区が舞台です。
江戸時代の新宿というと、沼地が多い郊外の辺鄙なところでした。
重信は絵師なので、静かな環境を好んだのかもしれません。
かれこれ20年近く前ですが、新宿リキッド・ルームによくライブを見に行っていました。
東京で一番よく通ったライブハウスかもしれません。
西口のレコード屋、世界堂本店、今は無きTOAにシネマカリテ、と当時の趣味嗜好と重なる部分が多い地域だったので、新宿にはよく行きました。
十二社のあたりは知人の彫金作家のアトリエがあり、たまに遊びに行っていました。
新宿は、とても東京らしい街で好きです。
雑多で、大きくて、古いものと新しいものの差が極端で、他人のことを全く気にしない、無関心の、冷たい、ざらっとした手触りのイメージがある街です。
欲望が渦巻く街、というと陳腐ですが、長きにわたる欲望の地層によって形成された都会という印象があり、あの混沌とした感じが一番東京らしい地域ではないかと思っています。
都会と呼ぶにふさわしい。
渋谷や原宿の混沌は演出されたものなので、そこはやはり年季が違います。
そこで、この「乳房榎」です。
私は落語には疎いので、歌舞伎で初めて知りました。
最初のうちは早替わりと本水に目を奪われて忙しく、演目をじっくり味わうどころではなかったのですが、何度か見るうちに、あぁ非常に新宿らしいなと思いました。
みんな、自分のことしか考えていない。
そこが非常に新宿らしいなーと思います。
欲と色と金が渦巻く新宿奇譚です。
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